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科学史家による映画『オッペンハイマー』考――全2回1

矛盾に満ちた実在/科学者としての
オッペンハイマー

伊藤憲二

2024年5月1日

矛盾に満ちた実在/科学者としての
オッペンハイマー

〔編集部注:この記事には映画『オッペンハイマー』の内容にかかわる記述が含まれています。〕

クリストファー・ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』は劇場で繰り返し鑑賞するに値する傑作だ。映像と音響による物理学的内容の表現、複数の視点の交差、時間軸を行き来する叙述、主人公の心象の映像化など、『メメント』『インセプション』『インターステラー』『テネット』といった作品でおなじみのノーラン監督の技法にいっそう磨きがかかっている。名優が次々と登場して繰り広げる印象深い場面の数々、多数の伏線が配置された複雑な展開、『ダークナイト』にも増して深刻な問いを投げかける重厚なテーマ。これらが合わさって感覚と理知の両方を刺激し、3時間の長さでも緊迫感が続く。

この映画を観たとき、筆者は不思議な感覚に包まれた。それはまず、物理学史上のさまざまな登場人物がこのように注目を浴びている映画の中に当たり前のように登場していることだ。現代物理学史というマイナーな研究分野にいて人知れず研究しているつもりだったのに、そのマイナーな題材が突然脚光を浴びて、多くの人々の意識に上げられるという感覚。それは人物だけのことではない。私は仁科芳雄という、オッペンハイマーと同時代で、いくつか共通するところのある人物の伝記(『励起──仁科芳雄と日本の現代物理学』)を書いた。その伝記を書くなかで抱いた問題関心ともつながるような問いを、この映画は投げかけているのだ。

誤解がないように述べておこう。科学史家として、この映画が細部まで史実に忠実であると言うことはできない。この作品はあくまでフィクションである。主人公は実在の人物に基づいて創作されたキャラクターと見なすべきだ。その上、作中の事実と主人公の頭の中の想念との区別も定かでない。これは主役の心象風景と敵役の視点が織りなす物語で、二重に架空なのだ。ついでながら、監督がその意図を神のように具現化する作品でもないことに注意しておこう。したがって、監督の見解をそのまま映し出すような作品ではないし、観客の便宜に監督が配慮して内容を作るようなことは避けられている。必ずしもよく知られていない科学史上の人物が説明なしに多数登場するのはそういうことだ。主人公がよく知っているのだから監督が観客のために介入していちいち説明を挿入するのは不自然なのである。

歴史的に不正確なところといえば、例えば、リチャード・ファインマンがロスアラモスでボンゴを叩くシーンがあるが、ファインマンの自伝ではロスアラモスの廃校で「ドラム」を見つけて叩き始めたとあり、それがボンゴになるのは戦後のことだ(1)。しかし(ノーラン作品なので時間が直線的に流れるとは限らないが仮にわかりやすく常識的な時間を前提すると)このシーンを事後に回想するオッペンハイマー(その記憶がこの映画の主人公を造形している)がファインマンをボンゴの人として認識していたのはありうることだ。その彼の心象の描写がファインマンの回想と違うのは歴史的に不正確とは言えない。そもそも学位を取得したばかりのファインマンが、ニールス・ボーアの代わりのような扱いでリクルートされたというのは史実からかけ離れている(ただしロスアラモスでファインマンがハンス・ベーテのような大物に認められていたのは事実だったと思われる)。しかしこれも、オッペンハイマーの記憶の中では戦後のファインマンの活躍を投影しているのだと見れば納得できる。後にカリフォルニア工科大学(カルテク)で有力な理論物理学のグループを作ったファインマンはオッペンハイマーの役割を継承したところがあり、晩年のオッペンハイマーにとっては大きな存在だったはずだ。

そもそも、原爆を作ったのはオッペンハイマーだけではなかったし、物理学者だけでもなかった。オッペンハイマーはロスアラモス研究所の所長であり、ロスアラモスは原爆についての理論の構築と原爆の組み立てをおこなった場所として重要であるが、例えば原爆の製造に必須だったウランの精製はオークリッジ、プルトニウムの生産はハンフォードでなされ、マンハッタン計画の本部はオークリッジに置かれた。マンハッタン計画の歴史記述としては、この映画は著しくオッペンハイマーとそのまわりの物理学者に偏っている。そのような偏見は戦後すぐからあったので、「歴史的な」偏見なのだが。

これらの点は、オッペンハイマーという映画の主人公の視点から観た心象だと考えれば、妥当なものである。ただ観客がそれを事実と間違えなければよいのだ。作中の描写の史実からの逸脱は伝記を読めばおおよそわかることで、ここで逐一指摘しなくてもよいであろう(2)

私にとっての問題は、この映画が中心的に扱っている事柄が、どれだけ歴史に忠実かということである。この映画が明らかにオッペンハイマーを主題にしている以上、この映画の核心の一つはオッペンハイマーの人物像だ。当然ながら、最近仁科芳雄の伝記を書いた人間にとって、20世紀の科学者をどのように描くか、というのは非常に大きな問題でもある。

このような問題ある主人公を同情的に描くのがけしからんという批判は、作品の主人公に感情移入して、同化するような鑑賞の仕方を当然視してしまっているためだろう。だが無理もない。主人公の問題ある面と同時に肯定的な面も描かれ、しかも彼の心の中に入りこむ手法がとられているからだ。数式に音楽を聴く知性を持ちながら、敬愛する師匠のリンゴに青酸カリを仕込む不安定な若者。頭の回転が速く言語能力が高いが、鼻持ちならない知的傲慢さを隠さない。邪悪でも強欲でもなく、それなりに人間的なのだが、既婚女性に手を出す女たらしで恋人としても友人としても不誠実。政治では周囲に流されがちで、弟や仲間に引っ張られて組合運動や反ファシズム運動に関与するが、別の友人に諫められてコミットしきれない。幅広い教養を持ち古典に通じているが、人間心理の無理解さは妻キティ・オッペンハイマーの直観的洞察力と比べて痛々しいほど。世の中の進歩を望み国際協調を目指すが、アインシュタインと対照的に愛国心は捨てきれない。いったいこの男は何者なのか。

主人公のこのような支離滅裂さをもって、作品を失敗作だと思うのは間違いだ。オッペンハイマーは実際そういう人物だったのだ。「非常に賢い」と同時に「非常に愚か」とイシドール・ラビは形容し、伝記の著者も彼の複雑さと内的矛盾を強調する(3)。作中でエドワード・テラーが彼の行動を理解し難いと証言したのは聴聞会の記録通りであり、本心であったとしてもおかしくない(4)。毒リンゴの件の真相は不明だが完全な創作というわけでもない(5)

核兵器を生み出した原罪を贖うために罰を求める、という描き方がさらに主人公の矛盾を深めて見せている。罰を受けることとは、自分の欲しないことが自分に起こることだが、それを欲するのは罰であることと矛盾する。だが、マイケル・フレインの戯曲『コペンハーゲン』(これもフィクション)における「不確定性」の扱いと似て、この映画が矛盾を内包し得るものとして存在を見る構図を舞台装置としていることは、作品の中の物理学的説明にヒントがある(6)。オッペンハイマーが最初の学生ジョヴァンニ・ロマニッツに量子力学を説明する場面で、光は粒子であると同時に波である、あり得ないけれど、そうなっていてしかも機能する、と語る。同じようにオッペンハイマー自身も矛盾を抱えつつ、機能しているのだ。

そもそもこの映画では原爆の開発製造自体が矛盾を抱えていたことが描かれている。ナチスよりも先に原爆を開発させるためには、大学でなされているようなアイデアの自由な流通による共同研究をおこなって、研究を迅速に進めるのが望ましい。ところが、軍事機密を保つためには組織を縦割りにして、ほかの研究者が何をしているかわからないようにすることが望ましい。オッペンハイマーはこの矛盾を解かなければならなかったが、どちらかといえば前者を優先してグローヴスと衝突した。さらにこの時代、全体主義の台頭と原子爆弾の出現という新しい事態に遭遇してそれに適合し、科学者がどう振る舞うべきか教えてくれる倫理体系は無かったし、ある意味、今でも無い。物理学が予想外の発展をして世界は変わり、その中でツギハギの思想でやりくりしなければならない。これが20世紀半ば以降の科学者にとって基本的な在り方となった。いや、それだけでなく、(この映画の表現を借りれば)「世界が壊された」後の現代に生きるわれわれの多くにとっても同様というべきかもしれない。われわれのほとんどは、アインシュタインよりはオッペンハイマーなのである。

オッペンハイマーの思想的一貫性のなさは、かつて科学史の花形だった思想史的なアプローチが現代に通用しなくなったことを思い起こさせる。古典的な科学思想史はオッペンハイマーその人が高等研究所の所員に受け入れたアレクサンドル・コイレに代表される。これは宗教や哲学など人間の他の知的活動と科学との思想的次元における連続性をとらえる魅力的なアプローチだった。ところが20世紀以降の科学研究は偶発的要素や個人的な事情に左右されて思想に還元できず、大部分の科学者は思想家でない。これに応じて現在の英語圏における科学史の主流は、思想ではなく科学における実践を問題にし、科学者が実際に何をしたのかを分析し、理解しようとするようになっている。ところがそういう研究は、科学思想史の枠組みが優勢な日本では不当に低く評価される。そのため、科学史のもつ他の多くの可能性が抑圧される傾向にあるのだが、これは拙著において、主に仁科に関して問題にした(7)。オッペンハイマーや仁科の重要性は、彼らが述べた思想ではなく、彼らの為したことにある。科学思想史的な観点からだと、オッペンハイマーも仁科も大した思想を残していないので、重要ではないと見なされる、あるいは彼らの行動から無理やりに「思想」を抽出しないといけないことになるが、それはあまりに不毛すぎる。オッペンハイマーの理解に関しては、彼が矛盾を内包していたならばその矛盾も受け入れなければならない。

つまりは映画『オッペンハイマー』の描写を歴史の教科書のように観て、その描写の一つ一つを真に受けることは間違いだ。しかし、そのオッペンハイマーの人物描写、とくに思想的な一貫性を欠き矛盾に満ちたオッペンハイマー像は、史実を裏切るものではない。それどころか、現代の科学と科学者の実際の在り方の重要な側面を鋭く描くもので、それはある種の科学史研究よりもむしろ妥当なものだ。そして、拠り所となる確固とした思想がなく、しばしば矛盾したこの映画の主人公の在り方は、今日のわれわれの多くにとっても決して無縁のものではないのである。

  1. リチャード・ファインマン(大貫昌子訳)『ご冗談でしょう、ファインマンさんII──ノーベル賞物理学者の自伝』岩波書店, 1986, pp. 222-223, 226-227.
  2. カイ・バード&マーティン・シャーウィン(川邉俊彦訳)『オッペンハイマー──「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』全3巻, 早川書房, 2024.
  3. バード&シャーウィン前掲書, 上巻, pp. 42-43.
  4. “J. Robert Oppenheimer Personnel Hearings Transcripts,” https://www.osti.gov/opennet/hearing, Volume XIII, p. 117.
  5. バード&シャーウィン前掲書, 上巻, pp. 126-128.
  6. マイケル・フレイン(小田島恒志訳)『コペンハーゲン』劇書房, 2001.
  7. 伊藤憲二『励起──仁科芳雄と日本の現代物理学』上巻, みすず書房, 2023, 序.


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